Archive de la catégorie ‘萩の歴史・須佐の歴史’


「すげーな萩は!」 ~萩博物館へ!

つい先日、萩博物館へ行ってきました。

閉館後の裏口からです。(アポはありましたよ。)

ヨルダン帰り直後の副館長さんに、やんごとなきご相談で行ったのですが、

超多忙・疲労の中、お時間を割いてくださり、

私の拙い質問にも丁寧に応えてくださいました。

 

ごあいさつ程度に聞いたヨルダンの話が、めっぽう面白く、

地域に根差した文化の継承の王道とは、どんなところでも変わらないんだと、

自分の考え方のベクトルが間違っていないことに安心しました。

 

萩とヨルダンの古都サルト市との交流について

 

萩の文化財や歴史的な資産は、それはそれで、価値もあり面白いのですが、

専門的な立場の方々が、地域の方々と協同し、

文化の継承を俯瞰しながら動かれているのを聞いて、

こういった方がきちんといらっしゃることに、

萩はすげーな!って改めて思いました。

 

さて、話は須佐の「弁天祭り」の話に

 

相談の主テーマは、時間的にも間に合わないということで、

来年に向けてじっくり取り組むことにしましたが、

私が現在取り組んでいる須佐の弁天祭り(前夜祭)とそのルーツの話の中心でした。

 

話は本題に行きつつも、脱線しっぱなしだったのですが、

その脱線が、より俯瞰して見ることのできる材料となったり、新たなヒントともなったりと、

時の経つのを忘れそうになるくらい、楽しい話でした。

 

歴史というのは、複雑で、今残っている物の原型が相当古くからあったとしても、

その途中で、様々な影響を受けて、形や名称・場所も変遷しているため、

どこから検証してゆけばよいだろうか?というのが、いつか、相談してみたいと思っていたことだったのですが、

話していて感じたのは、思いのほか普通にシンプルな答えで、

「地道にひとつづつ紐解いてゆく」ということでした。

 

弁天祭りのルーツとは

弁天祭りは、どこにでもあります。

周辺の浦々には、同じように弁天祭りは開催されているのです。

須佐の弁天祭りにも、広島の厳島神社ののぼりが立てられます。

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これだけ見れば、ある時期に厳島からの弁天神事が港沿いに広がってきたというイメージを一般的には、持つのですが、

実際、副館長さんもそう思われていました。

しかし、須佐の弁天様=市木島姫神は、宗像三女神と共に、

現在の湾内の島に祀られる前は、高山(当時:神山)に古くから祀られていたという歴史があり、

古代の日本海文化圏(東北-北陸-出雲-須佐-九州—-新羅(韓国))の通商航路(後の北前船の航路のベースになった)の頃からの、

影響・所縁に大きく影響されたものという説を説明すると、副館長さんも可能性のある話として、大変興味を持たれました。

 

須佐の地名の由来でもある、須佐之男命や須佐族との所縁、

古事記を独自の視点で解読されて出版された元大学教授の「須佐に須佐之男命が駐屯していた」という説、

北前船航路の中でも、「航海の神」としての信仰を集めた(現:黄帝社)須佐湾という神のいる寄港地としての歴史、

 

周辺の港にはない独特且つ突出した信仰文化が、須佐にはあったのです。

その信仰の名残を現代に紡いでいるのが、須佐の弁天祭りの船神事なのです。

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海上渡御

海上渡御

弁天祭り前夜祭

とまあ、弁天祭りと言っても、なじみがないのですが、周辺地域や地元須佐の中でも、「花火大会の日」なだけで、

この歴史的にも価値のある信仰文化をどう、地域に根差したものにするのか!?ってところで、前夜祭の取り組みがあります。

石見と長州に挟まれた独特の文化・歴史を持つ「石見境」と呼ばれたこの場所で、

昨年より、石見神楽や弁天神事等、須佐のルーツに所縁のある石見文化をテーマにした祭りを、

7月27日に行っています。

面白いですよ!

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副館長さんも、恐ろしいくらいの仕事量の中、

体も壊されていて、大変な状況でしたが、

須佐の歴史・文化資源を以前より高く評価されいて、

このたびの須佐の歴史民族資料館「みこと館」のリニューアルにも尽力されていました。

 

弁天祭りにも、今後、何らかの形で知恵を貸してくれるとのこと。

感謝です!!

 

「須佐面白い!」

そう評してくれたことが、何よりうれしかったです。

 

きただにひろしさん、SLHも!!

今年は、弁天祭り7月28日には、須佐の観光大使「きただにひろし」さんの他、

同じ山口県の下関出身のダンスチーム「SLH」【シェアロックホームズ】まで、来てくれて、

めちゃめちゃ盛り上げてくれました!

 

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LAST
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梅乃葉&はちみつ柚子ポン酢をいじって頂けて光栄です。

 

 

実は、阿武町の清ヶ浜海水浴場でもPVの撮影も!!

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本年最後の営業12月31日が終わりました。

明日、元旦も営業いたします。

 

余談ですが、

この元旦営業というのも、きっかけがありまして、

実は、過去、年末年始はガッツリ休みにしていたのですが、

ある時、元旦に、超スペシャルゲストが来てくれたんです。

影山ヒロノブさんと!

影山ヒロノブさんと!

ちょっと、無茶ぶりでしたが、急遽、活イカの手配ができたんです。

それで、

あれ?活イカ元旦までだせるじゃん。。。。

 

と気が付いたんです。(笑)

※そういえば、この時、SLHゆうまくんも初来店!だったような。

 

というわけで、人知れず数年前から始めている

元旦までの営業!!

「活イカは、元旦でも食えるぞ!」

と、叫んで本年を締めたいと思います。

 

色々な方にお世話になりました。

当店に来てくれたお客様の皆様、すっごい感謝です!!ありがとうございます。

いろんなアドバイスをくれた皆様、すっごい感謝です!!勉強します!成長します!

陰日向に後押ししてくれた地域の方々、すっごい感謝です!!絶対応えます!!

うちを支えてくれた従業員のみんな、すっごい感謝です!!又、頑張ろうね!

健康でいてくれた家族のみんなすっごい感謝です!!元気が一番だね!

 

 

やっぱり俺ってついてる!!

 

来年もよろしく!!


幕末史上最大の奇跡!

面白かったですね~。

個人的に一番見たいくだりでしたので、このあたりは、注目しています。

 

普通に、知らなかったんですよ。

なぜ、長州藩が、真逆の状況から倒幕に進むことになったのか。

高杉が挙兵してうんぬん・・・てのはわかってますが、

朝敵とまでなっていた長州藩が、まさに、大逆転してゆく背景と経緯・登場人物に、

興味があったんですね。

 

なんか、ダイジェスト版まんが日本史でも見ているかのように、

楽しく花燃ゆを見ています(笑)。

 

 

 

しかし!!

 

 

 

先週の放送ではショック!!

まったく、登場する機会を得なかった「益田公」。。。

ナレーターの池田さんが、オープニングで、

 

椋梨は「禁門の変」の責を三家老の切腹で恭順の意を表した。。。

 

てな、ナレーションを。。。。

 

 

あれ!?

 

今ので、益田公の登場は終わり?

最後まで、名前もでなかったし。。。。

 

先ず「益田公」と言っても、一般的には知名度は全く無いですから、

そもそも、今まで花燃ゆに取り上げられていないのは、残念でしたが、

これが留めかと思うと、無性に残念です。

 

益田親施(ますだちかのぶ):益田家三十三代

この幕末期の特に、久坂玄瑞が、下関にて外国船を攻撃するあたりまでの数年間、

毛利家家老の中でも、藩政最高位についており(椋梨なぞよりも、もちろん偉い)、

藩主敬親公の信頼も厚く、その後の長州激動の中、常に渦中にいた方です。

 

そもそも、面白いのは、松下村塾の塾生でもあるところです。(松陰より三歳年下。)

吉田松陰に学び、須佐の地に松下村塾の姉妹校「育英館」を創設、

吉田松陰も信頼していたようで、松陰からの多くの手紙が残っていたり、

育英館・松下村塾の間で、優秀な人材の塾生交換なども行われていました。

 

松陰が認めていた毛利家老中第一流の人材

松陰が藩政の内部の方(参議)に送った書簡の中に、益田公を推称しているくだりがあります。

「・・・・益田は行年二六・七歳、英気活発の人物にて、当時家老中第一流の人材に御座候。私門人に付幽因中にても兼て志を通じ居り候事に付き、勤王の一義に於いては常に其の志を同じ候儀に御座候・・・」

周布政之助は、益田公の部下にあたり、切っても切れない仲と言われています。

もともと、周布家は益田家の一族でもあって、

花燃ゆで、周布が活躍している時には、その裏には、益田親施が必ずいます。

周布が松下村塾の塾生らを応援する演出が多くありますが、それらの指示や思想自体、

益田公の思いであって、そこに、益田公が登場していないのは、須佐住民としては残念です。

 

「萩の土塀は”苆”(須佐)で持つ」

 

こういう言葉があるんです。

萩の防衛を支えているのは、土塀作りの素材”苆”(スサ)とかけて「須佐」であると。

言い換えれば、

北の防衛を担う「須佐という地域」全体という見方もできますし、

永代家老を勤め続けた「益田家」を指してるとも言えますが、

 

昔は、地名で人物を指して表現したように

そこを収める君主である益田公個人、

もっと極端に言えば、益田親施公を指していたかもしれません。(←まあ、それは言い過ぎかもしれませんが案外。。。)

 

 

タイミングを逃したのか!? 学ぶ機会を与えられたのか?

 

ドラマの脚本自体は、脚色されたものですが、

ドラマ化にあたって関係者の方が取材をされる時、

毛利家の歴史(幕末期)の中に、松陰、藩主、周布、久坂、桂らなどから、信頼を置かれていたこれだけの人物がいたということを、

伝えることが誰もできなかったことや、表にそういった話(文献)が出ていなかったことが、悔やまれます。

 

残念!

 

 

私個人は、もともと、幕末には興味がなかったのですが、地元の殿様は別です。

益田公が、須佐の地でしてくれたこと。その礎が、今の須佐を作ったわけですから、

そのルーツは、大変興味がありました。

 

花燃ゆには、登場しませんでしたが、

又、郷土史の文献を開く機会を得たことに、

大河ドラマの面白さを実感しています。

 

 

又、来週も楽しみです!